第169弾 のむけはえぐすり 継体天皇の樟葉宮(交野天神社)
2010-12-02


 

石段を下りながら、何故、即位の地が樟葉なのだろうかと考えてみた。

 

継体の即位に関しては、王権の簒奪であったり、委譲であったり、大和政権側からの吸収であったりと、さまざまな説がある。いずれにしても、対抗勢力のない政権交替などありえない。それまで政権を担っていた豪族の浮沈に関わるからだ。大和入りが憚られた理由も、そこにあると考えるのが自然だ。ならば、継体が即位し王宮を構えるにしても、大和をにらんで、攻めに軸足をおいた守りの場所という戦略性が必要になる。

 

当時の通信と兵力の移動は陸上であっても、物資や兵力の移動手段は川である。樟葉で合流する三川の上流をたどれば、桂川から山城へ、宇治川からは瀬田川と名を変えて近江へ、木津川からは大和盆地の北郊へと出ることが可能だ。淀川の下流の今の大阪はその当時、河内湖という大きな淡水湖になっていた。河内湖には大和川も流入していたので、河内湖から大和川をたどれば大和盆地へ行くこともできた。

 

今は、河内湖は存在しない。5000年ほど前、今の大阪府辺りは河内湾と呼ばれる大きな入り江になっていた。弥生時代前半に、今の通天閣から森ノ宮辺りに向かって伸びた上町台地の先端の砂州がさらに発達し、海と潟に分けられた。5世紀頃には潟は淡水化し、河内湖と呼ばれる大きな湖になった。淀川や大和川によって運ばれた土砂は河内湖を埋め立て、あちらこちらに中州ができた。湖の汀線は一定せず、北は枚方市の近くまで湖岸が来ていた。開拓が進み、江戸時代には深野池や新開池に河内湖の痕跡をとどめていたが、18世紀にはそれも埋め立てられ、現代では深野新田、新開新田の名が残っている。

 


続きを読む
戻る
[のむ けはえぐすり]

コメント(全1件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット