のむけはえぐすり 第8弾 チマチョゴリの話
2006-03-27


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のむけはえぐすり 第8弾 
チマチョゴリの話

民族衣装はどこの国でも美しく、その国の女性を一番美しく見せる術(すべ)と、風土的な合理性を持っている。とりわけチマチョゴリは、袖の曲線の優しさ、襟の凛々しさ、合わせのゆったりとした優雅さという三つの美を追究し、その色合いの華やかさと共に韓国の女性を引き立たせている。

チマチョゴリは騎馬民族が着ていた胡服が原型だとされている。チマチョゴリと一口に言うが、巻きスカート状のチマ(襦)と、上着のチョッキのように見えるチョゴリ(裳)を一緒にして、そう呼んでいる。男性のズボン状のものはバジである。下にはソッチマというペチコートのようなものと、ソッバジというステテコのようなものをはいている。

 チマは左脇から反時計回りに後ろ、右、前へと巻いていくので、左手でつまむと歩きやすいと、着付けの本に書いてあった。そこで思い出すのは、チャングムのイ・ヨンエがスラッカン(水刺間)を運動会のように走り回る姿だ。
 実はもう一つ、チマチョゴリを着た女性を美しく見せている術は、オッコルムと呼ばれるリボンだ。いつもむすび目がフワッとしていることに、感心していた。安全ピンで結び目の後ろを止めるという、裏技が使われているらしい。

 民族衣装はその国の舞踊とは切り離せない。チマはクルクル回ると、美しく広がる。ちょうど木槿(ムグンファ)の花が散るときに似ている。
 660年、百済滅亡の折、終焉の地である扶余(プヨ)の扶蘇山城(プソサンソン)で、3000人の女官達が白馬江(ペンマガン)に身を投げた。助からないようにチマを茶巾絞りのようにして身を投げたと言い伝えられている。その様がまるで花が落ちるようだったというので、その崖の岩は落花岩(ラッカグアン)と名付けられた。写真は、白馬江に浮かぶ船からみた落花岩である。

その頃のチマは、時代はやや下がるが、高松塚の西壁に描かれた赤や緑の縦縞の裳を着た女性の姿を思い浮かべればよいのだろう。かつて旅行した扶余か慶州の国立博物館で、百済や新羅の服装の違いが展示されていたが、違いが自分には分からなかったくらい似ていた。
[のむ けはえぐすり]

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