のむけはえぐすり 第28弾 原善三郎の話 その10 山手教会
2006-09-29


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のむけはえぐすり 第28弾
原善三郎の話  その10 山手教会 

 明治元年(1868)、善三郎40才、三井の引きで商法司に任命され、以後関係が深まる。

 幕府は勘定所貸付御用所を設け、三井にその運営を任せる。三井は横浜の有力な商人に荷物為替組合を結成させ、資金を融通する。その仕組みは、明治になっても商法司、通商司、為替会社、国立第二銀行へと引き継がれる。
 
 善三郎が民部省の商法司為替方になって、巨額の資金を得るようになったのは、三井の三越得右衛門さんのおかげだと言って間違いはないだろう。生糸改会社でも、官撰の5人の社長として一緒に働いている。国立第二銀行の株主の順位は、善三郎、茂木惣兵衛さんの次は、代が変わっても、やはり三井の八郎次郎さんである。

 そればかりではない。善三郎の亡き後のことだが、三井の生糸関係の事業を引き継いでいる。明治5年(1872)、日本最初の機械製糸工場である富岡製糸工場が設立され、明治26年(1893)に12万1000円で三井に払い下げられる。その後、この工場は三井が所持する他の三つの近代的製糸工場と共に、原富太郎(三渓)さんの原合名会社に譲渡されている。

 三井とは血縁もある。戦前の三井財閥の総帥は、血盟団事件で暗殺された団琢磨さんだ。マサチューセッツ工科大学卒の秀才で、三井三池鉱山を興した人でもある。団琢磨さんの四女の寿枝子さんは、富太郎さんの長男の善一郎さんと結婚している。

 善一郎さんは46才の若さで、脳溢血で急逝した。富太郎さんのあとを継いだのは、富太郎さんの次男の良三郎さんである。
 
 話は変わる。
今から20年前、私が病院に勤めていた頃、戦前にドイツから上海、そして日本へと渡ってきた患者Pさんがいた。P夫人は姉といつも一緒に、狭い病室の中で私の回診を心待ちにしていた。

ご主人が亡くなってから、P夫人と私は山手の外人墓地にお墓参りに行ったことがある。ローマイヤーさんの墓の近くにあるご主人の墓の前で、P夫人は自分もここに一緒に眠ると話していた。
 
Pさんの入院中に、とてもきれいで、上品で、気さくな方が、何度もお見舞いに来ていた。P夫人はその人のことを、「イトコさんです」と私に紹介した。P夫人の日本語は日本人と変わらなかったが、それでも顔がドイツのP夫人は、cousinにも「さん」をつけていると、私は微笑ましく思っていた。

 後で分かったことだが、セケーラ・糸子さんという名前の、原良三郎さんのお嬢さんだった。鍋島さんの親戚とP夫人から聞いたが、今になって系図をみると会津中将さんの血筋でもある。明治元年の戊辰戦争から、1世紀も経った頃の話だ。

P夫人は「イトコさん」を山手教会の仲間だと話していた。写真は、二人が通った山手教会で、元町から汐汲坂を上がって、山手女学院の前、山手44番館。
[のむ けはえぐすり]

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