のむけはえぐすり 第93弾 原善三郎の話 その71 ジャーディン・マセソン商会 Jardines in Japan(大火後)
2008-07-01


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のむけはえぐすり 第93弾

原善三郎の話  その71 ジャーディン・マセソン商会 Jardines in Japan(大火後)

“The thistle and the jade”の中の一章、“Jardines in Japan”の紹介が続く。

1866年(慶応2年)10月21日、朝8時に末吉町の豚肉屋鉄五郎の家から火が出て、日本人町の3分の2、外国人居留区の5分の1が焼失した。世に言う、豚屋火事である。  

ジャーディン・マセソン商会の英一番館も焼け、居留地の欧米人107人が焼け出され、破産するものも出た。

雑然とした街並みは、火事の類焼をくい止められなかった。復興にあたっては、居留外国人地区と日本人地区の境に、防火帯を兼ねた道幅の広い日本大通が作られ、近くには税関や郵便局など欧米風の建物が建てられた。そのため、ジャーディン・マセソン商会の英一番館は、外国人居留区の最も目立つ場所に押し出された格好になった。

1868年には大阪と神戸が開港された。早速、代理店のグラバーさんは大阪の造幣寮に行き、香港にあったイギリス製の造幣機械を6万ドルで売る商談をまとめてきた。ジャーディン・マセソン商会はその機械の搬入と、建設のための煉瓦3万個の納入によって5%の手数料を稼いだ。だが、この建物は完成目前に、焼失してしまった。

同じ年、日本との貿易の先行きが懸念されるなか、中国に戻って大班になっていたKeswickさんの一声で、横浜の英一番館は以前より大きく、より高い建物に再建されることになった。新しい建物は石と木で造られ、屋根は泥、漆喰、タイル、銅板瓦で覆われ、「ほぼ完璧な耐火建築」だと、設計者が自画自賛する代物だった。

居住区の土台は石で造られ、居間には弓形の引き出し窓があり、上海から取り寄せたマントルピースが置かれた。以前より格段に、壮大で快適なものになった。反面、維持費はふくらんだ。執事、コック、掃除人、庭師、馬丁などへの人件費の他に、衣装部屋の内装、ピアノの調律、庭の整備、カーテン、Japan Punch(雑誌)の購読料、Spring Valley Breweryの勘定など、臨時の出費もかさむようになった。    

1870年、久々に横浜にやってきたKeswickさんは、横浜のあまりの変わり様に驚いていた。欧米人は800人も住んでいて、電信、銀行、郵便、鉄道は整備され、ガス工場、商法会議所、グランドホテル、船が見える公園が造られていた。PO汽船、Pacific Mail、Messageries Maritimeの客船が定期就航し、米、蘭、独、仏そして英国の旗を掲げた船がスエズ運河を通って上海経由で、大量の工業製品を運び込んでいた。

その頃には通貨も落ち着き、貿易は拡大していった。鳩時計、タバコ、シャンペン、ブリュッセル製のレース、腕時計、ビリヤードなどの贅沢な外国製品が輸入され、明治の日本は“foreign crazes”(外国狂)の時代だった。だがそんなものは、欧米の技術と商売を覚え、国民生活を欧米並にするという当時の日本人の悲願からすれば、ほんの付録に過ぎなかった。

この間、日本がやったことは、生糸や茶などの国内工業を発展させ、銀行、通信、造船所、灯台などの施設を充実し、重機械、織物糸、工業機械を輸入することだった。そのような日本の経済発展や、“forth-class citizen”と言われた日本人の地位向上に、ジャーディン・マセソン商会を含めた外国商社が果たした役割は極めて大きいと言える。Grace Foxさんは著書“Britain and Japan” の中で、「イギリス人の誰もが認めることだが、多少反感が込めてあるにしても、この時期、日本に大きな変化をもたらしたのはイギリス商人に他ならない」と、述べている。    

1912年、明治が終わる頃には、日本の貿易商品の半分は日本製の船で運ばれるようになっていた。日本はさらに大きな貿易国になるため、その顔を少しずつ変えていった。

横浜英一番館で成功を収めたジャーディン・マセソン商会は、その後も、太平洋戦争の一時期を除き、現代に至るまで日本に存続している。    


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[のむ けはえぐすり]

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