のむけはえぐすり 第111弾
原善三郎の話 その89 神戸取材旅行 生田神社
「原善三郎の話」とは関係ないが、取材旅行のついでに、神戸の生田神社を訪ねた。
写真のように生田神社の拝殿は、朱塗りの柱が並び、屋根の形が入母屋造りの社である。奧のこんもりとした森が「生田の森」で、古くから和歌にも詠まれ、源平合戦の折りには平氏の一ノ谷の東門が置かれた場所だ。それが由来なのか、生田神社の東側には神戸一の歓楽街、東門街がある。
祭神はローカルな稚日女尊(ワカヒルメノミコト)。この若い女性の神様、あの神功皇后(ジングウコウゴウ)を相手になかなかな所を見せている。
西暦201年ということになっている。
三韓遠征から帰る途中、神功皇后の船が神戸の沖合で止まって動かない。いぶかる神功皇后がたずねると、この神様が出てきて、「私はここに住みたいのだから、ここに祭りなさい」と言いたい放題で、ここに祭られた。その時、同じようにして造られた神社が、大阪の住吉神社、神戸の長田神社、西宮の広田神社だという。中では、住吉神社は古代大和朝廷の外交と外征の守り神となった。
神功皇后の三韓遠征の話は記紀に書かれた伝説で、古代の天皇と朝鮮半島との関係を匂わせる話である。
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、日本式には息長帯比売(オキナガタラシヒメ)といい、もともとは巫女のような存在であった。巫女なのに夫がいるのも変な話だが、夫である仲哀天皇はあの倭建命(ヤマトタケルミコト)の皇子である。倭建命は、九州の熊襲(クマソ)征伐では女装して熊襲の酋長をやっつけた伝説のある英雄だ。
再び反乱を起こした熊襲を征伐するために、福岡の香椎宮(カシイノミヤ)に来ていた仲哀天皇が神功皇后に占ってもらうと、神懸かりした神功皇后が「西の方の国が豊かだから、そちらを帰服させよ」と告げた。その託宣を信じなかった仲哀天皇は、突然死してしまう。不思議なことは続くもので、その時神功皇后は身ごもっていたというのだ。
仲哀天皇に代わって全軍の指揮をすることになった神功皇后は、西の国、すなわち朝鮮半島へと向かった。その遠征を助けたのが、住吉大社の神様たちである。神功皇后の軍隊が海に出ると、魚の群が船を背負い、猛烈な勢いで日本海を渡り、そのまま大浪となって新羅に押し寄せ、アッと言う間に新羅を征服した。次いで百済、高句麗も従えた。それ以後、新羅は馬を献上する国となり、百済は日本の直轄地になったという。
遠征の途中で産気づいた神功皇后は、お腹に石(鎮懐石)を抱いて予定日を延ばし、日本に戻ってから福岡県の宇美(ウミ)で子供を産んだ。この子が邑陀和気命(ホンダワケノミコト)で、第15代応神天皇となった。
大分県の宇佐に宇佐八幡宮がある。そこには古くから八幡様を信仰する宗教があった。8世紀に宇佐八幡宮を有名にした事件があり、それ以降、全国に4万ある八幡神社の総社となった。その頃から、八幡様と応神天皇は同一視されるようになり、今では八幡様と言えば応神天皇ということになっている。源八幡太郎義家の頃から、八幡様は戦の神として源氏の守り神となった。
三韓遠征の話を聞くと、応神天皇は本当に仲哀天皇の子なのかという疑問が湧く。もしかしたら、朝鮮半島から来た誰かのことを、神話的に物語っているのではないか? 神功皇后の出自である息長氏からして、女性を追って日本にやってきた新羅の皇子・天日槍(アメノヒボコ)の子孫と言い伝えられている。勿論、この時代の朝鮮半島は高句麗、百済、新羅が鼎立していた三国時代で、日本から軍隊が来たなどという話はどこにもない。
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