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第120弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 統一新羅
百済が滅び、高句麗が滅んだ後にも、朝鮮半島の混乱は続く。
写真は韓国の慶州市の郊外にある金〓信(キムユシン)将軍の陵墓である。なだらかな山の中腹にある円墳で、武器を持つ十二支の神像の石板が周囲をとりまいている。石板は、金〓信が673年79才で亡くなった時に、文武王がこの陵墓の周囲に飾らせたもので、周囲の外敵を防ぐという意味が込められている。
墓碑には「新羅太大角干」と記されている。大角干という位はそれまでの新羅にはない。660年に金〓信が唐と連合して百済を滅ぼした時に、金〓信は唐からたいそうな位が贈られた。負けじと、新羅の武烈王が最高位の上に新たに大角干の位を創設し、それでも足りないと思ったのか、その上に「太」もつけたというわけだ。
共に苦労した7才年下の武烈王は、661年に崩じた。武烈王の陵墓もこの近くにある。武烈王の後を継いだのが、金〓信の妹の文明皇后が産んだ文武王である。35才の文武王もよく金〓信に政治や外交を計り、激しさを増す唐の無理難題に堪えていた。
668年に新羅は唐と連合して高句麗を滅ぼした。
しばらくして、文武王は唐の高圧的な態度にどうにも我慢できなくなって、唐との戦いを金〓信に相談した。金〓信は「新羅の国王が決意したことにはばかることなどありません、なすべきです」と答えた。「ですが・・・」と続ける。それには新羅だけでは力不足なのは明らかで、百済遺民や高句麗遺民と協力すべきことを進言した。
金〓信にとっても、唐には何度も裏切られた思いがある。
確かに、唐は高句麗と百済の侵攻にあえいでいた新羅に援軍を派遣し、助けてはくれた。新羅の要請に応じて、百済を攻めてくれて、おかげで百済を滅ぼすことができた。だが、それすらも新羅兵が流した血は唐兵の何倍にもおよび、兵糧物資の調達は全て新羅におわされたものだった。
百済が滅びた後も、百済故地の支配を新羅に任せることもなく、熊津都護府を置いて自ら支配に乗り出している。その結果は百済遺民の叛乱を招き、結局、その後始末に血を流したのは新羅兵であった。その上、唐は勝手に新羅の都を鶏林と名付け、文武王を鶏林大都護府の大都督に任命してきた。まるで、属国の扱いである。
この度の高句麗遠征にしてもそうだ。いきなり出兵の命令が来た。要請ではなく、命令である。ムッとしながら兵を出したが、戦いが始まるや、一緒に戦うはずの唐兵はじりじりと新羅軍の後ろに退く始末だった。
高句麗が滅んだ後も、大同江以南の地は新羅に任される約束だった。いくら催促しても何の音沙汰もない。その内、唐は平壌に安東都護府を置き、高句麗故地の支配を目論む。 そこに軍船建造の命令である。次に待っているのは、倭国遠征の先兵のはずだ。ここに至って、文武王は唐への抗戦を決意する。
手始めに、各地の高句麗復興運動の軍をそそのかすことにした。新羅には淵蓋蘇文の弟の淵浄土の息子、安勝(アンスン)がいる。淵浄土は、淵蓋蘇文が死んで高句麗に内紛があった時に、新羅に亡命してきた。新羅は安勝に高句麗王を名乗らせ、全羅道で兵を挙げさせた。唐は契丹兵や靺鞨軍に加え、百済遺民を使って対抗したが、新羅との連合軍にことごとく敗れた。
一度だけ、新羅が大敗したことがある。この時に、晩年の金〓信にもうひとつ憂いが生じた。石門の戦いでほとんどの新羅の将軍が戦死した。一人生き残った将軍が、金〓信の次男の元述(ウォンスル)である。金〓信は元述の帰宅を許さなかった。元述はやむなく太白山に籠もった。
新羅には花郎制度がある。上流貴族から選ばれた若者のもとに花郎徒が数百から千人ほど集まり、平時は精神的、肉体的修業に励み、一旦事ある時には血よりも濃い絆の戦士団となる。不退転を決意する花郎が一人生きて帰ることなどありえない。かつて自分も花郎であり、金官伽耶王の血を引く金〓信にとって許せるはずもなかった。
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