第125弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 山城の秦氏 太秦の広隆寺
2009-05-19


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第125弾  のむけはえぐすり
古代の帰化人 山城の秦氏 太秦の広隆寺

 写真は京都の太秦(うずまさ)にある広隆寺の南大門である。広隆寺は秦河勝が建立した山城国の最古の寺で、蜂岡寺または秦寺とも呼ばれ、山城国秦氏の氏寺であった。

 太秦をどうしてウズマサというようになったのか、日本書紀の巻第14、雄略天皇15年に、次のように書かれている。
 
 「秦の民はそれまで臣や連のもとに分かれて隷属していたが、秦造酒(みやつこさけ)の願い出によって、秦酒公(さけのきみ)のもとに集められた。そのお礼に、配下の百八十勝部(ももやそのすぐり)を率いて、絹を朝廷の庭にたくさん積み上げて献上したら、禹豆麻佐(うずまさ)という名前を賜った。禹豆母利麻佐(うずもりまさ)という名前は、その時のうず高く盛られた形から名付けられた」・・・とサ。

 この話を、古代帰化人学の泰斗、平野邦雄さんの本を頼りに、自分なりに解釈してみる。 

 雄略天皇の5世紀末、朝鮮半島では高句麗によって百済が一旦滅び、熊津で再興している。百済と新羅の間にあった伽耶諸国は、新羅の侵略に悩まされていた。一挙に国が攻め滅ぼされるなら、話は早い。新羅の民として生きる道もある。だが、収穫時に新羅兵がやって来て作物を奪っていくことが繰り返されては、最早、逃げるしかない。

 この頃の日本書紀を読むと、随所に、「百済国より、逃げ化来(もうけ)る者有り」とか、「是年、新羅人多く化来(まうおもう)けり」と記されている。日本書紀が書かれた時期には、伽耶はすでに滅亡しており、伽耶地方の人々は新羅人という認識だったようだ。

 中では、秦氏の系統が際だって多く、広く各地に分散していった。臣(おみ)や連(むらじ)の土地に住むことになった秦の民は、豪族の私有民となって隷属した。

 臣や連というのは、雄略天皇の頃に新たに定められた身分制度の高級官僚である。王家と並ぶ立場で最高の地位を占めていた蘇我氏、平群氏、葛城氏などの氏族には臣姓が下賜され、王家に従属する高級官僚で、王権の成立に重要な役割を果たした物部氏、大伴氏、中臣氏、土師(はじ)氏のような氏族には連姓が下賜された。

 中央集権化が進むと、「ヤマトの王家や政権、中央の豪族を支えるための労力や技術を調達するための支配組織」である部が形成されていった(関、150p)。この部民制の成り立ちに、いくつかの源流があるというのだ。

 ひとつの流れは当時の職業集団である。機を織る人なら絹や絹織物、土器を造る人なら土器を、といったように、職業集団はその産物を貢納する。このような品部(しなべ)呼ばれる部は、錦織部、鞍作部、陶部、金作部のように職業をそのまま部の名前として使うので、名負氏(なおいのうじ)とも言われ、その頃朝鮮半島から頻繁にやって来た今来漢人(いまきのあやひと)と呼ばれる帰化人がなった。この部の存在は大和王家の力を強大にする原動力ともなった。

 もうひとつの流れは、皇族の身辺警護、財産管理、衣食住の世話など、王家には日常生活を支える人々がいた。それまでは伴(とも)と呼ばれていた蔵人(くらひと)、史(ふひと)、膳夫(かしわで)、舎人(とねり)のような職種の人々は、蔵部、史部、掃部、殿部などの部になった。

 次の流れは、一般民衆である。天皇家の直轄領である屯倉(みやけ)の田を耕す民衆が部に移行するのは、問題ない。問題は、民部、部曲と書いてカキベと呼ばれ、たてまえでは王家の所属だが、豪族が朝廷に奉仕する見返りに私有を許されていた一般民衆である。こういう中に、朝鮮半島から帰化した秦の民が、各地にたくさんいた。


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[のむ けはえぐすり]

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