第192弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 御上神社
2012-12-19




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第192弾  のむけはえぐすり
近江の帰化人 御上神社

 琵琶湖線の野洲駅からタクシーで10分、御上神社の鳥居に着いた。そこから見た三上山は、円錐の形はしていない。遠くから見ると、手前の低い山が三上山に隠れ、きれいな三角形の近江富士に見えていたようだ。
 
由緒書きに記されている祭神は、天之御影神(おめのみかげのかみ)である。社伝によれば、孝霊の6年、これが紀元前285年と注釈されているので、今から2200年以上も前のことになってしまうのだが、三上山の山頂に天御影神が天降り、御上祝(みかみのいわい)が祀ったとされる。

三上山を望む里の遙拝所であった現在地には、養老2年、藤原不比等が社殿を創建した。その頃の三上山の一帯は、榧(カヤ)と呼ばれるイチイ科の常緑針葉樹の森であり、社殿にはその榧の木が使われた。

写真の本殿は鎌倉時代に建立されたが、どこか普通の神社建築と違っている。ほとんどの神社建築は、切妻造りで、両端に張り出す屋根がない。切り妻の語源をいえば、配偶者は家の端っこの「つまや」に住んでいたから妻といい、刺身の「つま」と同じだという。この本殿の両端には屋根があって、入母屋造りという仏閣や殿舎に多い様式である。漆喰の白壁や連子窓もまるで寺のようで、千木はというと無理矢理乗っけたような格好になっている。戦国時代まで、この辺りに東光寺という大きな寺があって、その神仏習合の影響でこのような形になったといわれている。

 天御影神は天照大神の孫であって、鍛冶や刀工の神とされている。天御影神の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)は日子坐王(ひこいますおう)の3人目の妻であり、二人の間の子が水乃穂真若王(みずのほのわかのみこ)で、近淡?の安直(やすのあたい)の祖先とされている。この近淡?安直が古代に三上山の麓、現代の野洲郡一帯を支配していた安国造であり、三上山を聖地として祭祀していた氏族である。古事記には御上祝(みかみのほうり)が息長水依比売を祀っていたと記されているが、御上祝の娘であったとする説もある(日本の神様事典、54P)。

日子坐王は開化(9)の皇子で、崇神(10)が地方を帰順させるために派遣した四道将軍の一人で、丹波方面が担当であった。日子坐王の母は意祁都比売命(おけつひめのみこと)で、その兄の日子国意祁都命(ひこくにおけつほみこと)と共に丸邇(わに)氏の祖先である。

御上神社周辺には、総数30基の横穴式石室を主体とする小規模な円墳からなる御上神社古墳群がある。さらに、写真の三上山から左の方へ、2〜3Kmの間が妙光寺山、大岩山と続く丘陵地帯になっていて、麓には後期古墳の群集墳が多い。野洲川右岸の大岩山周辺には、弥生時代終末から古墳後期までの大岩山古墳群がある。安直の歴代の墳墓と考えられており、明治14年から全部で24個の銅鐸が相次いで発見され、今は銅鐸博物館に収められている(のむけはえぐすり、第151弾)。


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[のむ けはえぐすり]

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