第193弾 のむけはえぐすり 近江の帰化人 神田神社
2013-02-18



真野川の北には1基の前方後円墳を含む111基の円墳からなる曼荼羅山古墳群があり、真野川の南には2基の前方後円墳を含む167基の円墳からなる春日山古墳群がある。真野氏の墓域と考えられている。いずれも片袖長方形プラン、平天井で、近畿一帯に広がる横穴式石室の特徴をとっている。明らかに、穴太の辺りにみられた両袖式正方形プラン、ドーム型天井で、ミニチュアかまどを出土する百済系帰化人氏族の墓とは異なっている。これらの古墳群は6世紀から7世紀にかけて営まれた古墳群である。

真野氏の新羅遠征の伝承から新羅系の帰化人ではないかという説もあるが、滋賀郡の最北端に位置する真野クには、和邇氏の勢力が強く、帰化人の氏族がいた証拠は見当たらない。

彦国葺命については、古事記に活躍が記されている。崇神10年(由来には紀元前87年とされているが)、四道将軍の一人、大彦命が北陸に向かう途中の和邇坂で不思議な少女から、孝元(8)の皇子、武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻吾田媛(あたひめ)に謀叛の企てがあると知らされる。都を攻める反乱軍に対して大彦命と彦国葺命が派遣され、彦国葺命が武埴安彦を射殺したというのだ。

 真野氏は新羅への遠征軍や、皇族の反乱に対する鎮圧軍の将軍を務めており、和邇部の中でも有力な軍事氏族であったようだ。

神田神社の周囲を見渡すと、今は真野川流域に広がる平坦な地形になっているが、当時は湖岸が迫り、すぐ北側には小野氏がいて、さらにその北には和邇部氏がいた。真野村の辺りだけで、二つの古墳群を造営できる人員や軍勢を養うほどの農地があったとは思えない。加賀、越前、若狭といった日本海側の和邇部からの動員もあったのだろう。真野の地は北陸の和邇部と都を結ぶ人員や貢献物の中継点になっていたようだ。

貢献物が北陸の和邇部からの運ばれてくる様子が、古事記に記されている。応神(15)が山背の和邇氏の娘を妃に迎えるために、宇治の木幡(こはた)で宴会が開かれた時のことだ。宴席に蟹が運ばれてきたのをみて、応神が歌を歌った。この蟹が角鹿(つぬが)から運ばれてくる道は険しく、蟹のように横歩きしながら峠を越え、水鳥のように潜って苦しそうに息継ぎをしながら琵琶湖を渡り、大変な思いをして運ばれて来た蟹だと歌った。

蟹が運ばれて来た道は、五里半越えの深坂峠だろう。蟹の横歩きに例えられるほど、五里半越えは険しかった。深坂峠を避けて、峠の東側に新たな道が開かれ、今に残る塩津街道となったのは、戦国時代末期のことである。

参考文献
1)大津市役所:新修 大津市史T 古代、1978
2)平凡社地方資料センター編:日本歴史地名体系第25巻 滋賀県の地名、平凡社、東京、1997
3)谷川健一編:日本の神々5 山城 近江、白水社、2009
4)財)滋賀県文化財保護協会編:琵琶湖をめぐる交通と経済力、サンライズ出版、大津、2009




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