第195弾 のむけはえぐすり 古代の帰化人 敦賀 気比の松原 渤海
2013-04-04




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第195弾 のむけはえぐすり
古代の帰化人 敦賀 気比の松原 渤海

 延喜式の雑式に「およそ越前松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」とある。

8世紀初めから10世紀にかけて朝鮮半島北部とロシアの沿海州にかけて渤海という国があった。その渤海からの使節が来た時の迎賓施設として松原客館があり、その管理運営を気比神宮の宮司に任せていたというのだ

渤海国を韓国語ではパレという。668年、唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼし、唐は高句麗の王族や貴族を今の遼寧省朝陽に移住させた。

7世紀末になると、唐の支配に対して反乱が起き、698年に乞乞仲象(こつこつちゅうしょう)が唐からの討伐軍を打ち破り、今の吉林省敦化市辺りに振国(震国とも)を建国した。新唐書によると、乞乞仲象の長男が振国の初代の王となった時に、高句麗王族の姓の一つである大氏を継いで、大祚栄(だいそえい)と名乗ったという。705年、唐は討伐をあきらめ、振国の建国を認め、形の上では朝貢国として「左驍衛員外大将軍渤海郡王」の称号を与えた。

718年、大武芸が2代目の王となると、振国は黒水靺鞨(こくすいまつかつ)族以外の全靺鞨族を支配し、旧高句麗の領土の北半分を支配するまでに版図を拡大した。渤海の発展を恐れた唐は、新羅と黒水靺鞨族と計り、遠征しようとした。これに対して、渤海は54回も遣唐使を派遣し、唐には藩屏国として服従する姿勢をとった。一方、新羅を牽制するために、新羅と敵対していた日本との軍事的な提携を求めて、728年に第1回の渤海使を日本に派遣した。

それから919年までの200年間に、渤海使は34回日本に来航し、日本からは遣渤海使が15回派遣された。

この間、第3代大欽茂による56年間の治世下で渤海の国力は充実し、762年に唐から正式に渤海国王の称号が与えられた。871年の第13代大玄錫まで、渤海は積極的に留学生を唐に送り、唐の制度を学ばせ、五京十二府六十二州の行政制度を確立し、唐をして「海東の盛国」といわしめるほどに繁栄した。

五京とは、古くからの国の中心である中京顕徳府(吉林省和竜)、新しい国の中心である上京龍泉府(黒竜江省寧安)、日本道の始点となる東京龍原府(吉林省琿春)、唐への朝貢道の始点となる西京鴨緑府(吉林省臨江)、新羅道への始点となる南京南海府(北朝鮮威鏡南道)をいい、中京、上京、東京との間で遷都を繰り返した。

写真の地図は、韓国国立中央博物館に展示されていた「渤海の領土とルート」である。今の沿海州の辺りのオレンジ色の範囲が、最大となった時の渤海の領土である。そこから、放射状に広がる矢印が新羅道、日本道、唐道であり、その起点になっているのが五京である。日本道の終点は、敦賀を指している。

10世紀に入ると、907年にまず唐が滅び、分裂していた新羅は935年に滅亡する。この間、渤海は支配階級の権力闘争と形骸化した制度によって弱体化し、契丹の耶律阿保機に攻められ、926年に滅んだ。


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[のむ けはえぐすり]

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