第196弾 のむけはえぐすり 住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港
2013-06-16




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第196弾 のむけはえぐすり
住吉大社 遣唐使・遣新羅使の港

西に向かう遣唐使や遣新羅使が出帆した港はどこだったのか。それが分かる当時の公的な資料はない。だが、使節やその縁者が詠った万葉集の歌から、ある程度うかがうことができる。

万葉集の歌を引用する際に付されている番号は、佐佐木信綱が編纂し1924年に刊行した「校本 萬葉集」に準じている。

 4245番の一首は、「天平五年、入唐使に贈れる歌一首・・・」と題される詠み人知らずの歌である。その歌には、「・・・平城の京師(みやこ)ゆ 押照る 難波に下り 住吉(すみのえ)の 三津に船乗り 直渡る・・・」とあり、この時の遣唐使は奈良の都から難波に行き、住吉の三津から船に乗って出航したと記されている。

この歌はさらに、「ゆゆしかしこき 住吉の わが大御神 船の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふなども)に 御立いまして・・・」と続き、住吉大社に航海の安全を祈願し、遣唐使の第一船の舳先に何やら社殿を祀って出港していった様子が詠われている。

この歌からは、住吉大社が古くから航海の安全を守る神で、遣唐使は住吉大社を経由して出航していった様子がうかがえる。そこで、住吉大社に行ってみた。

住吉大社に向かうには、天王寺の阿倍野から阪堺電軌上町線の古びたチンチン電車に乗って、見通しのよい平坦な「あべの筋」の下町をガタガタと揺られながら南下する。

実は、このあべの筋を反対に北へ向うと、天王寺を境に谷町筋と名前を変え、洒落た街並みの通りとなる。天王寺から5Kmほどで大阪城を過ぎ、天満橋で大川を渡る。大阪城の手前で谷町四丁目を右折し、なだらかな法円坂を上がれば、左手に大阪歴史博物館、右手に難波宮跡があり、1.6Kmで森ノ宮に至る。

現代は内陸にある住吉大社から大阪城の辺りまでは、古代には淀川と大和川から運ばれた土砂によって北に突き出た砂嘴(さし)であった。砂嘴は上町台地と呼ばれ、ほとんどが海であった大阪平野を、瀬戸内海と河内湾とに分けていた。砂嘴は時代とともに砂州となって対岸近くまで延び、今の吹田市垂水の辺りにわずかな幅の水路を残した。河内湾は淡水化し河内湖となり、氾濫を繰り返した。河内湖の流れを整えるために、仁徳が上町台地の途切れる辺りに「難波の堀江」を開削した。その堀江が今の大川で、大和川が江戸時代につけ替えられるまでは、大和川と合流して淀川の本流であった。地図は藤井寺市立生涯教育センターに掲示されていた「河内潟周辺の初期の弥生ムラ」の地図を基に作成した。弥生ムラが全くない地域が、河内湖の範囲でもある。

その後も河内湖は陸地化し、河内潟になった。江戸時代まで大阪東部に新開池、深野池として名残を残していたが、1704年の大和川の付け替え工事とともに開拓され新田となった。

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[のむ けはえぐすり]

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