第200弾 のむけはえぐすり 始度一海千餘里至對馬國
2013-12-29





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第200弾 のむけはえぐすり
始度一海千餘里至對馬國

表題は、「始めて一海を度(わた)る、千余里にして対馬国に至る」と読み下す。

 魏志東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝のはじめの頃の一節である。中国の使節が帯方郡から倭(日本)に行くには、海岸沿いに船で南に行ったり東に行ったりしながら韓国を経由して七千余里で倭の北岸の狗邪韓国に着くとした一文の後に続く。
 古代の小さな船で、危険を冒し日本海を渡る。勇壮とも、悲壮とも、胸が躍る一節である。実際にどんな船でどのように航海したのか、興味があった。

その疑問を解きに、まず大阪市歴史博物館にある弥生後期の船の埴輪を見学に行った。それが上の写真で、4世紀末の船形埴輪である。全長128.5cm、幅26.5cm、高さ36cmで、船首と船尾を高く立ち上げ、鰐口のような独特な形をしている。

この埴輪は、昭和62年(1987)の地下鉄谷町線の延長工事で長原駅の周辺から発見された。長原駅の周辺には、5世紀前半の小型の方墳を中心とした200基以上の古墳群があり、その中の高回り2号墳から出土した。

大和川の北岸の平野区長原は、古代には伎人郷(くれのごう)と呼ばれ、呉人が住み、地名にも転化した喜連(きれ)の東に隣接している。また、物部氏の本拠である八尾の渋川神社の南に位置し、ちょうど上町台地が河内湖に突出する砂州の基部にあたる。長原駅の近くからは韓式土器や初期須恵器も出土し、古代には朝鮮半島南部からの帰化人が住んでいた形跡がある。長原古墳群を築いた人々は、大和川を挟んで大王陵のある古市古墳群の被葬者とその政権を支えていたと考えられている。

展示されていた船形埴輪は、下部の丸太の「くり抜き船」の上に、舷側板を積み上げた準構造船である。舷側にはオールの柄を受けるための4対の櫂架があり、8人の漕ぎ手が船首に背を向けて漕いだようだ。

このような古代船を復元して、日本海を横断して韓国まで行こうとした実験航海が今までに2度試みられている。昭和50年の第1回目は角川春樹氏が組織し、西都原古墳から出土した船形埴輪を模して作られた「野性号」である。韓国では10人の韓国人船頭が八丁櫓を使って仁川から釜山まで漕いだ。時速は順調にいった時でも2ノット、約4Kmである。途中、海流に翻弄され母船に曳航されることもあったが、6月20日に仁川を出発し、7月7日に釜山に到着した。


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[のむ けはえぐすり]

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