第201弾 のむけはえぐすり 咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府
2014-02-01





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第201弾 のむけはえぐすり
咸安(ハマン) 安羅伽耶 任那日本府

釜山(プサン)から高速道路で咸安へと向かう。金海(キメ)の手前で洛東江を渡る。金海を過ぎる辺りから、海抜500m前後の低い山が連なり、山間の所々に小さな集落が見える。昌原(チャンウォン)を過ぎて間もなく、大邱(テグ)へ向かう道路が分岐する漆原JCがある。大邱へ向かえば60Kmほどで高霊(コリョン)だが、車はそのまま晋州方面をめざし、次の咸安ICで下りる。

地図で確かめると、漆原JCから10Kmほど北で、洛東江は金海へ向かう本流と、咸安へ向かう南江に分かれている。南江は咸安から晋州の先、泗川の辺りで海に注ぐ。古代の船ならば、咸安から南江を遡上し、それから洛東江を下れば、金海から海へと続く。逆に、南江を下れば、泗川からも海に出られるといった地形だ。

魏書弁辰伝によれば、3世紀頃のこの辺りは弁辰と呼ばれ、12の主な国とそれ以外の小さな国があった。それぞれの国から鉄が産出し、市場の売買にも鉄が用いられていた。

弁辰は、三国史記では伽耶と呼ばれていた。伽耶は金海の金官伽耶と咸安の安羅伽耶が中心勢力であった前期と、高句麗の攻撃を受けて金官伽耶が衰退した後、高霊の大伽耶が中心勢力となった後期に分けられる。最後は、金官伽耶国は532年に新羅に降り、安羅伽耶と大伽耶は562年新羅によって滅ぼされた。

咸安ICから、海抜400mほどの山に囲まれた盆地の中央にある咸安博物館へと向かう。写真のように、咸安博物館の玄関は土器がモチーフになっている。脚の部分にある透かしは火の玉から炎が上がったような形をしており、火焔形透窓と呼ばれる安羅伽耶式土器の特徴をまねている。

咸安博物館の裏はなだらかな山になっていて、夏の日差しで芝が茶色に焼け、稜線の所々に径が10mほどの円墳がある。遊歩道は山頂に向かって続き、その先にもまた古墳が続いている。

途中にある案内をみると、安羅伽耶の王や貴族の墓が集まっている咸安末伊山古墳群と記されている。末伊山は「モリサン(頭山)」の漢字を当てた名前で、「頭領の山」つまり「王(族)の墓のある山」という意味だという。現在、号数をつけて管理している墳墓は37基あり、痕跡として残っている墳墓は約100基あり、原形を保っていないものを含めると1000基以上あったという。

かつては道項里古墳群と末山里古墳群は別個の史跡として指定されていたが、発掘調査の結果、二つの古墳群は同時代の墓が集まったものと認められ、2011年7月に統合して末伊山古墳群として再指定された。


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[のむ けはえぐすり]

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