のむけはえぐすり 第114弾 閑話休題 両班
2008-12-23


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のむけはえぐすり  第114弾

閑話休題  両班

李氏朝鮮時代には厳しい身分制度があり、両班(ヤンバン)と呼ばれる支配者層、技術系の官職が多い中人(チュウイン)、一般民衆の常民(サンミン)、最下層の賤民(チョンミン)に分けられていた。

生産的な仕事に従事しない支配者層が、社会構造上そんなに多いはずはないのに、ほとんどの韓国人は先祖が両班だったと言う。とりわけ、男の子は「両班らしい生き方をしなさい」と言われながら育つものらしい。

両班のもともとの意味は、中国皇帝の前に並ぶ官僚たちの二つの列、文官たちの東班と武官たちの西班のことである。私もかつて、韓国における両班を、政府の役職に就いた人がいる家系という程度にしか理解していなかった。

両班の中には、代々ソウルに居住し、多くの科挙試験合格者を出し、高級官僚を輩出する家系もある。そういう名門の家系は在京両班といい、全州李氏、坡平尹(パピョンユン)氏、安東金氏、豊壌趙(ブンヤンチョ)氏などがこれに当たる。そんな恵まれた家系は、一族の中でもほんの一握りであって、多くは官職を辞した後、地方の農村に戻って在地両班となった。

だからといって、誰でも両班を名乗れたわけではなかった。それなりの社会的な認知が必要だった。

両班といわれるためには、三年に一度行われる科挙試験の、それもたった33名の文科の合格者に入ることが第一条件で、その次に、数代にわたって同一集落(世居地)に集団的に居住し、先祖に対する祭祀(チェサ)を丁重に行い、訪問客を懇ろにもてなす「奉祭祀、接賓客」を欠かさず、結婚もそれなりの相手を選ぶことが必要条件であった。    

ということは、両班とは制度上決められた存在ではなく、農村社会の中で相対的、主観的な存在であったといえる。ならば、自分も両班になりたいと考えるものが出てきてもおかしくはない。

高麗王朝の高級官僚が田舎に戻り、在地両班となった。いわば両班の第1世代である。  

在地両班たちは、李朝時代の15世紀から17世紀にかけて農地開発を進め、豊かになった財産を宗家の兄弟にも分配した。分家となった中から、新たに科挙試験に合格して中央の官僚になったものが、農村部に戻って居を構え、新たな在地両班となった。両班の第2世代である。

新たに形成された在地両班はお互いの地位を確立するため、厳しい資格審査を行い、地方ごとに両班の名簿(郷案)を作成し、郷案組織を作った。その頃の地方の政庁には中央政府から地方統治者(守令)が派遣され、実務は現地で採用された郷吏が行っていた。教案組織は郷吏を指揮・監督する立場にあり、郷吏は教案組織を構成する母体の出身者である。両者の関係は近いようで、明確に区分されていた。

18世紀になると、郷吏たちは学問に専念して科挙試験を受ける権利を獲得し、徐々に両班との差別を解消していった。その結果、郷吏の中からも両班となるものが現れた。新興の両班は一族の「族譜」に記録されることを求め、何代にもさかのぼって新たな派として族譜に登場するようになった。両班の第3世代である。

こういう本来両班に近い人たちが両班化したというだけでは、今日の誰も彼もが両班だった言える現状を説明するのに充分ではない。

次は、常民や奴婢が両班になりたがった。両班の第4世代である。  

19世紀中頃の戸籍大帳(ママ)と、17世紀、18世紀の戸籍大帳と比較した研究がある。1690年に両班を名乗る戸数は全体の9.2%であったが、1860年代には70.3%になっている。詳細を見ると、1780年からの約80年間での増加が大きく、常民戸は減少し、奴婢戸は激減している。

この話には裏がある。戸籍調査で両班と書くと、兵役が免除されるので、戸籍上の両班が増えたということのようだ。そのためには、金で両班の家系を買ったり、族譜を手に入れたりということがあったようだ。一度、両班を名乗ってしまえば、後はそのまま。


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[のむ けはえぐすり]

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